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沙沙貴神社について

御祭神

沙沙貴ささき神社では、少彦名神すくなひこなのかみ大毘古神おおひこのかみ仁徳天皇おおささきのすめらみこと宇多天皇うだのすめらみこと敦実親王あつみのみここれら四座五柱よんざいつはしらの神々を佐佐木大明神ささきだいみょうじんとしてお祀りしております。

  • 第一座

    少彦名神すくなひこなのかみ

    海の彼方から、ササゲの豆の鞘で出来た(『古事記』ではガガイモの殻)で出来た小さな舟にまるで豆粒のような神が、ちょこんと乗って海を渡った伝説のある少彦名神。

    「大国主神の国造りを助けるために来た」と酒類味噌醤油の醸造、穀物の栽培法や農工業の諸道具の作成、蚕を飼育して絹の整糸、子宝、安産、育児、健康の良薬など、あふれる知識を持ち、病に倒れた大国主神を温泉に入れて癒やすなどの手腕で、大いに大国主神を助けました。

    これらの伝承から、少彦名神は 薬の神・温泉、病気平癒や国家安泰の神として祀られています。

  • 監修・櫻井治男 臼井 治(画)
    「くり返し読みたい日本の神様」(リベラル社)
  • 第二座

    大毘古神おおひこのかみ

    古代 都からの北陸道・東海道・西海道・丹波道を守護した四道将軍の御一人で北陸道を守護され、旅の安全・交通安全を守護されています。

    ご子孫の古代の沙沙貴山君は、ササキの庄の地名につながります。

  • 第三座

    仁徳天皇おおささきのすめらみこと

    難波の宮から国民の生活を眺められ「自らが富めるのは国民が富みて自ら富める」と申され家庭の円満を望みになりました。

  • 第四座

    宇多天皇うだのすめらみこと
    敦實親王あつみのみこ

    宇多天皇/敦實親王を祖先とする、宇多源氏・佐佐木源氏は平安末期 源氏の時代から近江國を始め全国17余州の守護職にあり広く全国に居住することになりました。

    沙沙貴神社 神主家に継承されている系図では、佐々木姓が全国に170万余家さらに枝分かれした、京極家(讃岐 丸亀藩 京極家は、現在の本殿・権殿・拝殿を再建。指定有形文化財)、黒田家、三井家(楼門の沙沙貴神社の墨書と大型額を掲額)、朽木家、佐佐木家、大原家、高嶋家、六角家、乃木家など一族は、220余の姓名となり、350万余家に統計されています。

    その佐佐木源氏一族の子孫が守護神として広く敬拝されています。

  • 宇多天皇御真影、(宇多天皇皇子)敦實親王御肖像

御由緒

  • 沙沙貴神社は、全国の佐佐木さん、佐佐木源氏の氏神として広く崇拝されている神社です。

    神話の時代、小さな身体に大きな知恵というお力を持った少彦名神すくなひこなのかみ様が、ササゲの豆のサヤ(「古事記」天之羅摩船)に乗って、海を渡ってササキの郷に来られたという伝説があります。

    平安時代前期延長5年(927)にまとめられた、延喜式えんぎしきに沙沙貴神社の名が掲載されており、1000年を超える長きにわたり、信仰を集めました。

    古代には、佐々貴山君の祖神 大金毘古神(大彦命)を祀り、さらに仁徳天皇(大鷦鷯尊)をお祀りしています。

  • 沙沙貴神社 由緒碑
    沙沙貴神社 由緒碑

中世(鎌倉時代)以降は、宇多天皇/敦實親王をお祀りして、四座五柱の神々を佐佐木大明神と申し、「宇多源氏」「佐佐木源氏」「近江源氏」の氏神として今日に至っています。佐佐木家をはじめ、六角氏・京極家・黒田家・三井家・朽木家など220余姓一族の氏神様です。

佐佐木四郎高綱の子孫である、乃木希典将軍も崇敬者の一人として度々参詣され、境内には御手植の松もあり、明治天皇御崩御ののち殉死されたあとは、ご祭神となりお祀りされています。

現在の本殿・権殿・拝殿は江戸末期の火災後に、丸亀藩・京極家のお力により再建されました。また楼門・東回廊・西回廊などはそれよりも古い時代に建てられており、これらの大型神社木造建築八棟は、平成2年滋賀県指定有形文化財に指定されています。

延喜式えんぎしきとは、平安時代中期に編纂へんさんされた格式(律令の施行細則)三代格式の一つです。

沙沙貴神社と宇多源氏・佐佐木源氏

佐々木氏は、宇多うだ天皇(869〜931)の皇子、敦実あつみ親王(892〜966)の玄孫やしゃごである、源成頼みなもと なりよりが近江國・佐々木庄に下り、成頼の孫の、経方つねかたが佐々木姓を名乗ったことに始まります。

佐々木氏は、佐々木氏の氏神である沙沙貴ささき神社が建つ、近江八幡市安土町常楽寺周辺から、佐々木氏のやかたがあった小脇(現在の東近江市小脇町)辺りまで広範な候補地がありますが定かではありません。ただ、蒲生郡内であったことは間違いないようです。

佐々木氏が近江に確固たる基盤を得るきっかけとなったのは源平の合戦でした。

経方の孫の秀義ひでよし(〜1184)は、平治の乱(平治元年1159)で、源義朝みなもと よしともに敗れたため近江を追われ、相模國(現在の神奈川県)まで逃れます。

しかし1180年、源頼朝が平氏打倒へ挙兵した時、長男の定綱さだつなら息子たちを引き連れて参戦し、目覚しい功績をあげました。

秀義自身はこの戦いで戦死しますが、定綱は戦功により近江國惣追捕使(そうついおし※後の近江守護職)に任ぜられます。

守護職に就いた定綱は、頼朝の自筆と伝えられる「佐佐木大明神」の神号額面を文治二年(1186)七月二十八日に物部清貞氏の調整で、表参道大鳥居に掲額しています。(現在も古額を保存して、その同じ形式の写を表参道 大鳥居に掲げてあります。)

兄弟たちも多くの恩賞を与えられ、一族全体で述べ十七カ國の守護職を得ていた時期もありました。

しかし、鎌倉幕府と後鳥羽上皇が争った承久の乱(1221)で 一族の多くが上皇方に付いて破れ、守護職のほとんどを失いました。

定綱の跡を継いだ信綱の息子の代に佐々木氏は四家に分かれ、長男 重綱―大原氏、次男 高信―高嶋氏、四男 氏信―京極氏、そして三男の泰綱に始まる六角氏が惣領そうりょう家(本家)として近江守護職を継承しています。

<主な佐佐木源氏>
佐佐木、佐々木、六角、京極、黒田、三井、大原、高嶋、篠笥、笹木、佐々城、沙沙貴、尼子、伊庭、椙山、岳、朽木、和泉、山脇、田中、種村、鯰江、乃木、松下、和邇、など

220余の姓が継承されています。

『佐々木一族の系譜』より

今も根強く生き続ける佐佐木六角氏

六角氏による支配は、戦国大名のように上から強力に統制するのではなく、在地勢力の自立性の上に成立した穏やかなものでした。

この結果、近江には惣村そうそん寺内町じないちょうといった自治を行う村や町が多く生まれました。

滋賀県を象徴する佐佐木六角氏の六角紋章を受け継ぐものに、 近江八幡市章や、滋賀県立八幡商業高等学校章などがあります。

六角氏がもたらした地域社会の自治の伝統は、佐佐木源氏発祥の地の近江國、滋賀県には今も根強く生き続けています。

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